演劇という場を通して自分の過去を赦す - 映画『トークバック 沈黙を破る女たち』

映画『トークバック 沈黙を破る女たち』観てきた。

事前に何かで知っていたわけでもなく、興味のあるテーマでもなく、ふらっと観に行ってみただけだったがなかなか面白かった。"ふらっと"というのはどういうことかというと、自分が働いている事業所の代表から「これこれこういう催しがあるから京都まで行ってこい」というお達しがあり、まあ行ってみるかという感じです(謎)。

大学の演劇論やらフェミニズムやらジェンダーやらなんかそういうことを研究している部門が主催してて、しかし自分にはあまり興味のあるテーマではなく「休日にちょっくら映画でも観るか、京都行くのも久しぶりだし」というくらいの軽いノリで行ってきました。烏丸からバスに揺られ京都の交通網の不便さを嘆きつつ大学へ。大学生を経験したことがないため広大な敷地に少々面食らいながらも講堂へ。大学っぽい椅子に座りそれなりに大きいスクリーンで映画が始まった。観客は20人くらいだっただろうか。

映画はアメリカのサンフランシスコが舞台で、HIV/AIDSとかヤク中とか被差別のマイノリティーの女性(黒人が多い)が演劇を通して自分の過去を語るというもので、その過去には壮絶なものがあった。少女期の性的虐待・麻薬中毒・窃盗。そしてHIV/AIDS。収監歴を繰り返すなかで拘置所内でのセラピー(という言葉が妥当なのかどうか)としてその演劇集団に出会ったり、HIV/AIDSの治療の過程でその演劇集団のプログラムを紹介されたりする。

未だにアメリカでもHIV/AIDSに対する偏見・差別があって、女性がそれを自ら語ることは難しい。演劇というものを通して自分の過去を語り表現する(トークバックする)ことでそれを赦していく。


自分を深く掘り下げていくことは難しい。自分の晒したくない過去を誰かに語ることはとても難しい。同じ病を抱えた人たちが集まって語り合うことは多少そのハードルを下げてくれるだろうがそれでも表面を撫でるような共感に終始しがちだと思う。日本でも自助会というものの存在はよく聞くし自分も何度か参加したことがあるが、深い部分をさらけ出せたことはなかった。それは人間関係の深まりに依る部分もあるだろうけど、何か構造的に難しいところがあるんじゃないかと思った。

その場に演劇というフィルターをかませれば、自分自身を表現するにしろ、別のものを演じるにしろ、それによって自分の深い部分を語り・見つめることがしやすいのではないかと感じた。

"声を上げないと存在が認められないのか"ということや"表現することが自分を赦すことに本当に繋がるのか"という部分に疑問は残ったけど、自分自身を語り認めるための場作りとして演劇というのは興味深いなと思った。


※追記

当日同席させていただいた方のブログを掲載させていただきます。

解説が非常にわかりやすく感想・考え方に共感しました。合わせて読まれることをおすすめします(というより僕の拙いブログなんかよりこっちを読んだ方がいいです)。